不惑春秋
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<ラグビー人生>       #9 守田 貞義

 私が生まれて初めてラグビーの試合を見たのは、中学5年生になった昭和7年の春、北九州小倉市の到津野球場でした。全国学生ラグビーで優勝した京都大学と当時九州最強の門司鉄道局との試合でした。世の中にこんな面白いスポーツがあろうとは!!
特に敵味方入り乱れてのFW戦は素晴らしいと思いました。よーし五高か七高に入ったら必ずラグビーをやろうと決心しました。

 当時、私は朝学校に行くのに必ず4km程、若松戸畑の渡し場まで走りました。(走らないと遅刻するので仕方なく走ったのですが)この結果、いつのまにか中・長距離の走力が強くなってきました。5年生の秋の運動会で800m競争(25人程出場)に出場した時は、2番手の選手を40m程離して優勝することが出来ました。
この時柔道や相撲の選手でもある自分が、走るのが速ければ鬼に金棒、走る格闘技のラグビーをやるぞと、さらに決心を強くしました。

 昭和九年春、五高入学、自ら進んでラグビー部に入部しました。体が強いので激しい練習をしても全然疲れませんでした。1年生の秋にはレギュラーで殆どの試合に出場しました。以来68年、軍隊の3年を差し引いて正味65年間ラグビーを続けています。
(五高では2回落第して5年間ラグビーをやりました)

 昭和28年八幡ラグビー部は全国社会人で初の三連勝を果しました。この時私は、監督兼選手で出場しました。数えで39歳の時です。その後は、監督は続けましたが現役選手としては引退しました。そしてその頃スタートしたオーバー40の九州の迷惑倶楽部に入部しました。迷惑倶楽部で15年間、不惑倶楽部、惑惑倶楽部他と試合をしました。同時に八幡技研クラブを作り、迷惑、技研両クラブで試合をしました。午前、若松で技研クラブ、午後、福岡で迷惑倶楽部でのダブルヘッダーといった具合で楽しみました。

 昭和44年6月、東京の子会社に出向し、すぐに不惑倶楽部に入部しました。迷惑倶楽部では不惑倶楽部との試合が楽しみでした。不惑倶楽部には54歳で入部したためすぐに古株です。また迷惑倶楽部で15年程戦った相手ばかりなので、入部したその日から楽しかった記憶があります。相内主務は、「迷惑倶楽部で一番迷惑だった人が不惑倶楽部に入った」と大歓迎してくれました。
 不惑倶楽部に入ってからは、夏の菅平合宿、カナダ他海外遠征、三惑大会、九州、北海道、大阪その他への遠征と、楽しい日々を過ごしました。一方、仕事は出向した子会社の社長と意見が合わず別の子会社に再出向しました。この会社ではおとなしく副社長を10年ほど務め70歳で年金生活者となりました。

年金生活者になるともうラグビーだけが人生です。
益々熱中してゴールデンオールディーズなどの海外遠征に参加し夢中で楽しみました。ところが80歳になった時、庭の植木の手入れ中、高い所からコンクリートの上に落下しました。瞬時に受身をしたため大事には到らなかったものの、手、足、腰を痛め3ケ月程安楽イスで生活をしました。腰は今でも痛い時がありますが、それ以降体力が何となく戻らなくおかしいのです。しかしこれで好きなラグビーをやめては馬鹿らしいので気を引き締め、3日に1度は30mダッシュ6回を続け、何とか好きな試合に出させて貰っています。

ラグビーがいくら好きでももう余命幾ばくもないので、ゴルフや油絵を描くことにも精を出しています。去年のブリスベーンや三惑大会その他の大事な試合には全力を尽くして頑張りました。再来年の三惑大会や3年先のゴールデンオールディーズが引退試合となりそうです。その時は数え年91歳。名古屋の林さんにはかなわぬけれども、人間引き際が大切だとも考えています。

私は、八幡製鉄でも出向先でも好きなラグビーに熱中出来、運が良かったと思います。これも不惑倶楽部の心やさしい同輩、後輩の皆様のお陰です。皆様とラグビーを楽しめ本当に幸せだと思っています。
最後に(不惑春秋は読んでもらえないかもしれませんが)結婚以来60年以上、好きなラグビーをトコトンやらせてくれた家内に心の中で深く感謝しています。


<カナダラガーメンの思い出>       #18 宮下 清一

 私が入部した頃は有名大学OBがほとんどであったため、私のような弱小大学出身は居心地が悪かったら一度で逃げ出すつもりでいた。ところが新人としてコップ酒の一気飲みと歌を唄う洗礼を受けた後、忽那会長と相内主任に京橋・新橋と二次会に誘われ、居心地の良さに今までお世話になってしまった。

30年程前、犬吠崎に一泊し潮騒を肴に深夜まで呑んだ翌日、銚子で千葉県のOBチームと試合をしたことがあった。帰途の車中で当時紺パンツ組だった、片桐、太刀川、畠山の諸兄と私が駄弁っていると、向かい席の赤パンツ組の忽那、相内、綱倉、長尾の諸先輩が
「お前たち、あと何年で赤パンツだ」 と声がかかった。
「あと6〜7年ですよ」との返事に、「赤パンチームが楽しみだ」との言葉。
「でも相手がいませんよ」とのことで一同大笑いしたことがあった。
あれから30年経って上記の諸先輩は皆鬼籍に入ってしまった。
現在では赤パンツだけで紅白戦が組めるなんて夢のようである。部員数も桁違いに増え、運営もさぞ大変なことと思うが、若手諸兄の努力の賜物と日ごろ感謝している。

 ラガーマンの友人としては、元スコットランド代表のグラハム・バッジと元カナダ代表のビル・ダンバーの名前が忘れられない。1970年、彼等がカナダ代表を引き連れ来日した折、日本で三惑対抗戦の活躍を知り、帰国後、昔のラグビー仲間を呼び集めオールドスタイラーズを編成して1974年初来日した。当時カナダ経済使節団長として在京中のバレットBC(ブリティッシュ・コロンビア)首相も試合に参加した。帰国後「BC首相と国民の名に於いて不惑倶楽部を招待します」との招待状を受けた。翌年、不惑倶楽部は家族を含めて100名に近い参加者にて初めてのカナダ遠征を敢行した。バッジ等はその後アメリカ・欧州・オセアニアと遠征を続け、現在のゴールデンオールディーズの基礎を作ったと云われる。

惜しむらくは、バッジは1978年、ラグビーの練習中に心臓麻痺で倒れ、ダンバーは1982年既に癌に犯され余命数ケ月の身でエバーグリーン来日に同行し、思い出の秩父宮ラグビー場で最後のジャージ姿でタッチジャッジを務め、帰国後翌年3月に亡くなった。
今回のカナダ遠征は療養中のスキリングを見舞い、スタンレーパークのバッジ記念館を詣で数々の遺品を飾るダンバールームを訪れる回想の旅で思い出を辿りたい。

“紫のパンツで与太るボケラガー”


<ラグビーというスポーツの不思議さ>    #88 清野 耕一
 
 1952年(昭和27年)、中学校3年の時、我々1学年100名(女子含み)は、秩父宮ラグビー場の青山寄りスコアボードの下で、全早大対オックスフォード大の試合を観戦した。
体育の川田清八先生は教育大のOBで専門は陸上だったが、戦後初めての外国からのチームの来日とういことで連れて行ってくれたのであった。
このオーバルなボールは男子生徒のハートをつかみ、以後ずいぶん校庭でラグビーごっこをして遊んだ。50名の男子生徒の内7名までが大学までラグビーを続けた。
私のラグビーのルーツである。

 1976年12月、飛田給の日本郵船グランドで、故長尾ドクターの紹介により不惑倶楽部での最初のゲームに参加した。その時は長尾ドクターのジャージを借りてプレーした。
高校、大学、社会人、そして不惑倶楽部で約50年、自分ながらよくラグビーを続けて来れたと感心している。

このボールゲームの不思議の不思議さは、同じグランドでプレーしなくとも、練習しなくとも、ラグビーをしたいというだけで皆が仲間になってしまうことだ。それも何年も前から知っているような仲に。
普通、先輩後輩というのは、同じチームの上下で呼び合うものであろう。それがどうであろう、ラグビーをやっただけであれば、あたかもまったく同じ学校の先輩のように、年下であれば同じように後輩になってしまう。その先輩後輩の絆が出身校などまったく超越しているところにラグビーの魅力を感じているのは私だけではないだろう。

ごく最近、息子の購入した「知と熱 大西鉄之助」(藤島 大著)を読んだ。その文中で大西鉄之助氏がスマトラで捕虜になった時、大西鉄之助氏が軍刀と一緒に腰につけていた早明戦連覇のボール型メダルを戦犯調査官の英国大佐が見つけ、「ラグビーか、私も軍隊でプレーをした」と語りかけた。
これが最後のラグビー談義かもしれないと思い、大西氏は語りに語った。
「わかった貴殿を信用しよう、さあ食事でも」と一命助かり無事帰国した。
その時をふりかえり、
「不思議でしようがないですよ、ラグビーをやっているやつは。日本であろうとイギリスであろうとニュージーランド、カナダ、どこへ行っても皆一緒。ラグビーをやっているだけでバカみたいに一緒になっちゃうんだからなあ。」
と語っている。
ラグビーボールはラガーマンを引きつける何かを持っているのだ。

 不惑倶楽部在籍25年、全国のラガーマンとグランドで出会う事が出来た。その出会いのためずいぶん旅行にも行けた。
今年のゴールデンウィークは、不惑、神惑、東惑、惑惑、等からなる惑燦という名でカナダへ遠征し試合を楽しんでくる。カナダは4回目で旧知の友達との出会いを最大の楽しみにしている。
来年は息子が入会資格を得る年齢になる。当然不惑倶楽部の一員になってくれるだろう。赤パンと白パン、一緒にプレーするチャンスは少ないだろうがこれもまた楽しみだ。


<楽しく生きる>    #201 伊藤二朗

 この度21世紀最初の「カッコウのひな杯」賞をいただきありがとうございました。これも不惑倶楽部の皆さんのご協力のおかげと大変に感謝しております。

 不惑倶楽部へは満50歳で加入させていただき、以来12年間ほとんど休みなくゲームに参加し、人生について学ぶところが多く、楽しい人生を送らせていただいています。ゲームに参加出来ないのは結婚式、法事、部外から依頼される審査委員、試験委員等自分でコントロール出来ないもので、仕事のために不惑を休んだことはない。怪我をしない体質に1年はかかりました。最初の1年間は整形外科に通いっぱなしでやっと2年目位から怪我が少なくなりました。

怪我をなくすにはどうしたらいいか、ゲームで走れるようにするにはどうしたらいいか。ということで入会してから1年位して、毎朝ジョギングをするようになりました。出張、旅行、遠征でもジョギング道具を持参しています。現在のメニューは約5km弱のジョギング、軽い筋トレ、腕立て、腹筋、背筋等約1時間行っています。メニューは段々増えて現在では約16種類あります。この中には、薄さんから教えてもらった柱への当たり、大西さんから教わった直角走行、合宿中に習ったステップ、ボールの取り扱い等も含まれています(ゲームで使うことはほとんどありません)。おかげでゲームを楽しむことが出来、怪我も少なく、怪我をしても立ち直りが早くなっています。
なぜ、こんなに熱中出来るのかはわかりません。勝ち負けにこだわるところやいいプレーをしたいというようなところが面白いのかもしれません。 

 55歳のとき、鉄道総合技術研究所を定年退職になり、新しいコンサルタント会社に再就職した時も不惑で頑張っているおかげで仕事も順調に進めることが出来、ほとんど精神的負担を感じることなく、スムーズに乗り越えることが出来ました。
 基本的に人間は仕事だけでは生きていけないと思っています。体力的、精神的あるいは人間関係を学んでいかないといい仕事は出来ないということだと思います。これからも1年でも長く不惑でゲームが出来るように励んでいきたい。
 最後に楽しく生活出来るのは不惑倶楽部のみなさん及び家族の理解と健康も大きな要素であり、あらためて感謝したいと思います。


<主務時代> #177  岩佐好恭
 
私は満48歳の時に山田先輩の紹介で入会しましたが、最初に不惑の皆さんに紹介していただいた所が、関東ラガークラブ(KRC)でした。当時は赤パンと紺パン会が合わさった形で、確か偶数月の第3金曜日に三金会が開催されていました。ご紹介をいただいたのはよかったのですが、まあご出席の皆さんの、よく飲むことかつ食べることには驚きました。並のグループではないというのが第一印象でした。

最初の試合は、東農大のグランドでしたが、運悪く竹岡選手が肩を脱臼し、頚椎の故障から見学をしておられた矢和田先輩があちこちの病院をご自分の車で駆け回って加療に努められたのにお付き合いしました。残念ながら日曜日のため専門医が見つからず、三軒ほどの病院を回ったあげくに治療を済ませたと記憶していますが、試合で負傷者が出た際の対処の仕方に感心もし安心もしたものでした。

その後自分も左膝の内側じん帯と右肩を損傷する事故に会いましたが、メンバーの皆様ご協力とご理解をいただき今日まで何とかプレーを続けることができました。深く感謝する次第です。また主務在任中には、文字通り会員全員のご協力をいただきました。会員各位のご理解とご協力がなければとても、その任に堪えることはできなかったと思っております。

 田中主将と私のコンビで4年間を務めましたが、名古屋の東惑戦でのことでした。当日新幹線に乗ってみると乗車したメンバーは僅かに10名程、横浜を過ぎても追加の参加者はなく、これはえらいことになったと思いながら、名古屋駅で乗り換えて、中部電力のグランドに向かいましたが、地下鉄の乗り換えの際、安田選手外数名が現地にて合流し、更に東惑のメンバーの中から不惑の関係者数名にこちらに入ってもらってゲームを行いました。
相手はフルメンバーの上、交代要員も十分という態勢で大変激しいゲームとなり、私は前半で完全にバテてしまいましたが、田中主将の後半もあるぞの一声に必死になってついて回って試合を終わりました。終わってみればなんのことはない、不惑のシャットアウト勝ちという結果に終わり、試合の後の懇親会は少人数の不惑が大変に盛り上がって、片や東惑は気の毒なほど意気消沈といった感じでした。このときほど不惑の底力はすごいなと思ったことはありません。それと同時に遠征時の参加メンバーの確認は慎重におこなわねばならないと反省も致しました。

その後不惑の皆様の活躍は更に活発となり、昨年はNPOとしての新たな活動の方向も定まりました。日本におけるラグビーのクラブチームの新たな在り方を示すものとして今後の不惑倶楽部のますますの発展と活躍を期待いたします。


<不踰矩> #76  安部 正義

 明けましておめでとうございます。

不惑倶楽部には、40才を機会にと、宮原英雄氏(立教大同期・関東協会理事)から勧誘があり、三井高井戸グランドで杉本要二氏(現理事長・私が立教大新人の時の主将)の紹介により入会しました。

早いもので26年を経過し、その間国内遠征は数えておりませんが、海外遠征はカナダ・アメリカ2回、台湾2回、シンガポール・台湾、タイ・バンコクと参加し、普段、倶楽部の皆様には楽しく交際をして頂き有り難く存じます。
 さて倶楽部の名称は、論語「吾十有五而志干学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」の中の「四十而不惑」より命名したと聞いております。

 私達の年齢になれば、他人の言葉を素直に聞く心を持ち、「道」に外れないよう、石瀬先輩の言われる「長幼序あり、礼を失すること無く、倶楽部の発展を常に念頭に努力する。」を心掛けて生きて行かなければと思っております。
 又、大山先生曰く「不惑倶楽部は紳士の集団である。規約に定めのない事項又は運用に関して疑義が生じた場合は、ラグビー精神に則り信義、誠実を第一として解決する、という条項は永遠のものであると思う」と云われる通りであります。
 つきましては、年頭に当たり、特定非営利活動促進法(以下法と言う)に基づく不惑倶楽部は、法並びに定款を遵守し、経営されることを祈願するものであります。

「初春に 霜蹴り走る ラガーメン」


<思い出>      #80 斎藤浩二

 私のラグビーの始まりは、昭和25年、中学校の新校舎が出来た時からだった。
小学校の間借りから移転した時のグランドが土だった。体育の先生が楕円のボールで遊ぶことを教えた。ルール、フォーメーション等は 出駄目であったが、クラス対抗をやるまでになっていた。

その頃、香港チームや軍艦の乗員のゲームが秩父宮であり見に行った。これが私のラグビーの始まりでした。
高校に進み本格的に始まったものの、練習は常時5、6人で、試合の時は他部からのかき集めのチームであった。
その為、ポジションは2#,9#,10#,15#と4人は固定されてしまっていた。
それ以来、私は#2をやって来た。当時2#の大きなのがはやっていた時代だった。

 私が不惑に入れてもらったのは、OB戦等のゲームが少なくなり、先輩の「森直」さんに話したところ、来てみろよ と云う事で 不惑に顔を出したところ早速日体大教員とのゲームに連れて行かれた。
当時不惑も常時25人位のメンバーで3本勝負をこなしていた頃であった。その後メンバーも試合数も増続け時々プレーの出来ない人も出だして来た。時の清水主将は試合に対する姿勢ということで悩まれて居られた時があった。その後他の惑チームが続々と出来、試合数が増え、メンバーも増続け、現在のように色分けしても大変な時代となった。

 私にとって忘れられない試合は、20年位前の秩父宮における雪の三惑戦である。今なお当時のプレーヤーの語り草になっているが、今年度はそうならないように願いつつ。
 


<KRC>           #70 永吉正令 

 昭和47年(1972)不惑倶楽部へ中央の先輩、田頭さんと立花さんから強制的に入会させられました。主将の清水さん(明治)が学生時代監督でしたから、(4年生の時優勝)逃れようがありませんでした。当時学生が所属していたクラブの若手と走る度に、当然ですが体力の衰えと運動神経の低下を著しく感じ惨めな思いに絡れていて今さらラグビーをやるのに多いに抵抗があり迷惑なことでした。
デビュー戦が 草薙での楽惑戦、初三惑は京都西京極、夜行寝台車で往復した盛岡が、初東日本、武里団地へも行きました。 最若手でしたから、お年寄りの先輩方に交じると、絶好調の現役時代以上にうまく成ったように錯覚してしまいました。

 早速、つれて行かれた所が、KRC(関東ラガー倶楽部)でした。不惑会長の忽那さん(慶応)、主務の相内さん(明治)、WTB辻さん(立命)、WTB中川さん(明治)には、よく飲ませて頂き、大変可愛がって戴きました。戦前初のカナダ遠征されたオールジャパンの方々、戦後不惑を創立された方々と正に日本ラグビー史を飾った方々と協会のお偉方の中で酔いしれる快感も味わいました。内でも傑作は、ホイスルの音で始まる誕生会で、誕生月の方々が嬉々として酒を持参し、昔の自慢話に打ち興じられている姿には笑いました。
私の学生時代対戦相手の監督だった方々、立教の片桐さん、法政の鈴木さん、東大の高島さん、青学の松元さん(早稲田)が当時をよく記憶しておられ話題はつきず感激しました。ラグビー以外でボートの村田さん(慶応)、陸上の土屋さん(慶応)ボクシングの田辺さん(立教)にも大変お世話になりました。
 KRCのメンバーになれたことは非常に名誉で、貴重な財産です。今、幽明を異にしました先輩方を思い出す時、胸が熱くなるのをおぼえます。

 現在、千原さんが会長で、誕生会は例会、赤パン会、理事会、各種委員会等が実施され、不惑の文書発送作業も行われて、不惑にとって必要欠かせないところです。未会員の方の入会をお勧めします。
 


<入部時代>        #59  永山 隆一

 40才を少し越えた頃、ドクタークラブと不惑倶楽部の試合があり、そのアフターファンクションの席で長尾・太刀川両先生の推薦で入部を許された。「来週も来てくれますね。」
と言われ、「えっ来週も?」「試合は毎週あります。」と言われびっくりしたが、一回でも休むと大事な事を逃がしそうで精勤することになる。当時忽那会長は豪快な方でフッカーをされスクラムで1回とか決めて代わられる筈が、調子が良いと中々出て来られずやきもきしたたこともあった。カナダ遠征直前空港で不調を訴え辞退を希望されたが、ダグラス・クツナを皆、待ってると説得され、我々ドクター陣が旅行中交代で同室することになり無事帰国された。

 清水主将はラグビーし過ぎによる腰痛があり、専らメンバー作りされていた。主務の相内さんは新人の名前でも一度聞いたら絶対度忘れもしない記憶力抜群の方だった。守田さんは(旧制)五高のゴンちゃんと言われスクラムの押しに負けた事がないと若いF.W.をつかまえては1対1の頚とりをしようと八幡製鉄強かりし時代の現役兼監督を誇示され、自分の試合が終ってもグランドに残り誰か怪我して出て来るのを待っておられたように思う。私など習慣性肩関節部脱臼があったので、素早くスパイクのまま両手を踏んで立ち上がりながら戻し、急いでプレーに戻ったものである。千原さんはF.W.出身のB.K.で酒豪ぶりと共に、当たり・スピード、尚、御健在のようである。
 現杉本会長は筋力敏捷性抜群で、今はラインアウトでタップするなと叱られるが、当時はどこへタップしても必ずその場所に飛んで来ておられ、ボールは確実にB.K.に廻った。

 私は入部して未経験だったプロップNo.3をすることになったが、スクラムの押しで体が二つ折れして浮き上った。専門職の矢野さんに組み方、かけひき等教わり、ロックの宮原さんに尻が大きく押し易いとほめられる(?)程になった。対日体大職員戦で前年(当時輪島と勝ったり負けたりの)相撲部の人がプロップで今年はお前が対面だと森直さんに言われ覚悟して行ったら別人で安心した事もある。
 最近では元山さんにゲーム中、レフリーの感覚で(特に紅白戦等相手方になると)よく叱られ可愛がられている。下手な小生に表現の仕様がないらしく「しつこいプレーをしますね。」と皮肉で言われている。これからもうまいプレーは無理なので相手に嫌がられるプレーヤーを目指して努力して行きたい。
 


<惑チームとの交流・親睦を>      #48 元山泰秀
 
 私が不惑倶楽部に入会させて頂いたのは,昭和55年、47才の時であった。
 昭和50年頃より,各地域にクラブチームの結成が盛んになり,OVER40のチームも同じく増えてきた。埼玉県の各クラブや武惑クラブの結成に携わっていたため、入会が遅れ、54年に不惑倶楽部対武惑クラブの交流試合が船橋の山一証券のグランドで行われたのが切っ掛けで入会した。

 当時は31年から続いている三惑大会と47年に盛岡で始まった東日本大会の他は,楽惑(静岡)、東惑(名古屋)、徳島、高松,松山の四国への遠征があった。
 55年第6回東日本大会が福島の平工業高校Gで行われ、参加したのが国内遠征の最初であり、又56年の第2回カナダ遠征が海外遠征の最初であった。
 鹿児島の桜惑クラブとは51年に第1回の遠征で交流を深め、第2回(56年)は指宿温泉と鹿児島観光、さらに未惑クラブ(宮崎)と対戦し、青島海岸等の観光を行った。第3回(60年)には惑童クラブ(熊本)と対戦し、水前寺公園観光の後、川内市で桜惑クラブと対戦した。平成10年には赤パン主体で遠征し、翌日、特攻基地跡の知覧を訪れた。第1回の遠征以来不惑倶楽部に芋焼酎の愛好者が増えたと聞いている。
 また、63年津田秀則君のお世話で石川県根上で富惑クラブ、翌日には金沢陸上競技場で金惑クラブと、ワールド対早稲田大学の前座で対戦しました。泊まりは粟津温泉の割烹旅館「喜多八」で、不惑倶楽部としては稀な大名旅行で楽しんだ思い出がある。
 東日本大会でも、盛岡の前日、函館に寄ったり、秋田の帰りに酒田に寄ったりした。
最近は諸般の事情もあり、このような観光・遠征は少なくなった。

今年は第16回関東甲信越不惑大会が不惑倶楽部の担当で行われる。この大会は群馬惑惑の提案で、61年高崎浜川Gで第1回大会が行われ、第3回熊谷荒川Gより各県持ち回りとなる。第6回大会の不惑倶楽部担当の時、熊谷に県営ラグビー場が竣工し、そのお披露目も兼ねて、熊惑・武惑合同の埼玉不惑クラブと共催の形をとった。資金面、運営面は埼玉不惑クラブが負担した。

 今回の第16回関東甲信越不惑大会は真田町・菅平観光協会のご協力を得て、菅平サニアパークで行われる。特定非営利活動法人(NPO)不惑倶楽部として、真価が問われる大会です。"21世紀生涯スポーツとしてのラグビーの継続"というスローガンを掲げ、シンプル(リーズナブル)に行うべく準備を進めている。杉本理事長が常に述べているNPO事業としての"大会の開催・運営"である。会員全員の協力を得て、この大会を成功させ、惑チームの交流・親睦を深めたいと思います。


<これから汗をかきます>  #50  小野 任
 
不惑倶楽部の結成初ゲームが昭和23年3月石ころだらけの東京ラグビー場(現秩父宮)で行われたということで、とても懐かしく思い出します。小生出身高校がこの真ん前の都立青山ですので、グランドの石ころ拾いを青山高校ラグビー部が勤労奉仕したこともあってか、小生が部の主務をやっていた昭和24〜25年には、文化祭にラグビー場を使わせて戴きました。

 惑惑の誕生が不惑の翌年昭和24年で花園で緒戦、25年の国体で第二戦を瑞穂でやっているので、東京ラグビー場で不惑の試合を見たのはもう少し後かも知れませんが、高校か大学の頃から時々不惑のゲームを観戦した覚えがあります。
 現役から学士ラガーを通じて、不惑創始者の難波先輩を始め香山、西谷、正野、高島(清)、川田、高橋等、栄光の時代の名選手で不惑倶楽部でご活躍になった諸先輩に大変お世話になりました。そんなことで、不惑倶楽部は超エリートの集団であって、我々凡人の手の届かぬ存在と思っていました。

 それで、数え40才の頃に水内先輩からお誘いをいただいたのに直ぐには入らず、しばらく学士ラガーで若い人に迷惑をかけ続けていましたので、入会は同年齢から2〜3年後の方々より遅くなりました。
 45歳頃に仲間に入れて戴いて最初のゲームは、なんとフルバックデビューでした。鈍足でえらいこっちゃと思っていたら、なんとキックもこなければタックルチャンスも殆どなし。FWが押し捲ってアタックの連続、FBは用なしでした。
 その後も斎藤、小林(勝)の重量プロップに挟まれたフッカーで楽をさせて頂き、紺パンまで負けた記憶が殆どない状態。遠征もアフターファンクションもこの上なく楽しく、極楽でした。ただ、未だに申し訳ないと思うことは、入会2〜3年やっと倶楽部の下働きでもと思ったところで大阪転勤となり、3年半惑惑と掛け持ちになったことです。帰って来たらもう紺パン、合宿も個室に昇格していて大部屋の経験が殆どありません。

 下働きをサボった罪ほろぼしに、これからボランティアでもなんでも、汗をかきたいと思っています。
 終わりに、現在の倶楽部について、若干感想を述べさせて戴きます。
ここ2〜30年、不惑倶楽部にも大きな変化がありました。国内と世界に仲間が莫大に増殖し、黄パンだけでも15人揃うほど、年齢範囲も拡大し、会員数も200人を越す大所帯になりました。このような発展を齎した要因の一つは入会会員が多彩になったことにあると思います。
 森直明氏を先頭とする早慶クラブチーム、以前には在籍しても出席者の少なかった早慶本チャン、BOB定期戦に繋がる防衛庁等々からの継続的かつ良質の人材供給は不惑倶楽部の大きなサポートになっていると思います。
 組織もしっかり出来ました。皆でますます盛り上げて行きましょう。
 


<鬼軍曹の頃>    #66  矢和田 淳

  1970年、私が37才のとき、石瀬先輩のご紹介で、不惑倶楽部に入れて頂きました。まだ年齢に達していないと申しましたところ、お前みたいな無名の人間の年齢など、誰も気にしないと言われ、参加することとなりました。
 ポジションは与えられたところは、どこでもやりますと言えと、指示され、その日その日の空白を埋める役目に徹し、FWは全てのポジションをしてきました。

 こんな私ですが、諸先輩に可愛がられ、特に年齢の近かった森さん、杉本さん、大山さんには、いろいろとご縁のあったこともあり、大変お世話になりました。
 その森さん、杉本さんのお二人が、畠山、宮田両先輩のあとを受けてマネージャーになられたとき、お二人から、大変なことを命じられました。
 それは、『鬼軍曹役を引き受けろ』と言う私のような気の弱い人間には、大変な難題だったのですが、お二人に協力をせざるを得ない立場から、お引き受けしました。

 それまで、相手の数も少なく、年間14,5ゲームの消化であったのが、全国的に40才以上のチームも増加し、必然的にゲーム数が増え、チームにメンバーも増えてきた、いわゆる過渡期にあったと思います。
 マネージャーを引き受けられたお二人が、大先輩と新しくメンバーに加わった人たちとの接着剤に、不肖私を登用されたのではと思います。
 普段の、ボール、フラッグ等の管理、遠征の時等の行動等に口やかましく注文をつけましたが、私は本来心の優しい男です。大変心が痛みました。
  夏合宿のとき、大部屋長として、先輩各位に差し入れを要請して、若い人の飲み代を浮かすよう努力したのはせめてもの罪滅ぼしです。先輩諸兄、後輩の皆様の当時のご協力に感謝いたします。


<菅平と「やどろく」と私と>  #42 森直明

1973年8月、不惑倶楽部の菅平合宿が始まりました。
この記録は不惑倶楽部の記念誌に何人かの方が詳しく書かれています。

菅平と私の付き合いは1950年(S25)に始まります。
早大GWRCの新入生だった私は、都立青山高校のOBでもありました。当時の公立高校としては珍しく1週間の夏合宿を菅平でやってました。
当時、望岳荘(今の菅平ホテル)と菅平会館の2面しかグランドはありませんでした。今はもう菅平会館の建物はなくなってしまいましたが、グランドはセンター前の町営第1グランドとして残っています。
8月になると法政・慶応・早稲田・同志社が合宿していました。菅平会館の主(渡辺才智氏)との40数年のお付き合いの始まりでした。

1人米2合を持参。後は渡辺さんにお願いして「闇米」(なんていう言葉が理解できるでしょうか)を調達していただいて1週間の合宿をはりました。
まだ菅平にはレタス畑はなく、引き揚げ入植者の人達はキャベツを作っていました。だからオカズは野菜ずくめ、キャベツの味噌汁に漬物、炒めもの。スルメを水でふやかしてテンプラにした「スルメのテンプラ」。唯一大きなヤカンに入った絞りたての牛乳がご馳走でした。
以降、青山高校・GWの夏合宿で一夏2回ずつ、毎年休むことなくお世話になって50余年、学校・会社と違って菅平だけは、無遅刻・無欠勤でした。

1961年に桑田館が1面、62年に早稲田が2面とグランドを作り、計5面となりました。1965年、今我々がお世話になっている、国際ロッジにもグランドができました。まだ農地転用の規制でグランドを作ることが大変難しかった時代で、今は亡き先代の社長松本昭三さんが不惑の先輩故玉野穣さん(当時専修大学の事務局長で関東ラグビー協会の理事でもあった?)のご尽力もあって、これで菅平のグランドは11面になりました。今でもベルニナのグランドのコーナーには大きな「専修大学専用グランド」の立て看板があります。

1973年不惑倶楽部の第一回合宿の時には20面になっていました。農地の転用が割合簡単に認められるようになり、これまでのスキー宿が夏場の稼ぎとしてラグビーの合宿に目を向け始めたからです。その推進と相談役が渡辺才智さんでした。
ラグビーをなんにも知らないスキー宿の親父さんが、唯何十人の宿泊を目当てに合宿を引き受けるのですから、中には悲惨な合宿となるところも出てきました。そこで私は渡辺さんにお願いしました。
「もし菅平の人達が本当に菅平をラグビーのメッカにしようと思うなら、ラグビーを知って欲しい。プレーする立場になって初めて食事・風呂・部屋などの問題が分かってくるでしょう。グランドだけを増やしてもチームは集まってはきません。評判が悪くなればどんどんほかの合宿地に逃げられます。そのためには、1軒から一人ずつプレイヤーを出してください。菅平親父チームを作るのです。」
そして1976年夏、やどろく倶楽部が結成されたのです。全くの素人ばかりでした。練習時間も、宿泊客のお昼の食事を片付けてから、夜の食事の支度をするまでのわずかな時間しかありません。それも毎日は無理な話です。メンバーも同じ顔ぶれが揃うことはほとんどありませんでした。レベルは今の少年ラグビーチームの親父版とでもいうのでしょうか。渡辺才智さん・白樺荘の宮沢健ちゃん・まるみ山荘の宮下修ちゃん・文部省の箱山さん・初音の下平さん・そして国際ロッジの松本昭三社長等々。ちょうど40そこそこのメンバーでした。
1977年夏、初めて不惑倶楽部に教えてもらいました。そして土曜日の午後の定期戦となったのです。
限られた時間で、少ないメンバーで毎年やどろく倶楽部は、青山高OB、GWOB、不惑倶楽部、国鉄OBと一夏4つの定期戦をこなして実力をつけてきました。
世代交代も徐々に進み、「惑」でメンバーが組めるようになり「惑大会」に参加するようになりました。反面、25年経った今、創設時のメンバーから渡辺才智さん、松本昭三さんを失い、プレイヤーとしては文部省の箱山さんを残すだけとなってしまいました。構成メンバーも二世プラス、アルバイトの助っ人に様変わりしつつあります。
1999年、菅平のそしてやどろく倶楽部の念願だったサニアパークが5面完成。これで87面。

やどろく倶楽部とサニアパークの繁栄を祈ります。


2001/4/29
<つれづれなるままに>    #30 安部泰造

 昭和43年の春、相内要さん(明大)から「秩父宮に来るように」とのことで出かけてたところ、丁度不惑の20周年とういうことで、今では考えられないことだが、スタンドでバーベキューの会が開かれていた。
そして「今日からお前は不惑のメンバーだ」というお話しである。
当然にして不惑は名門であるから「とても私など」とお断りしたが、「これからは、ラグビーを愛し、プレーをやっている人達に入ってもらう。ついでに何か芸ができて酒も呑めればなお良い」ということで入らせて頂くことになった。
当時の役員は、会長、主将、主務のみで会則もなく会費もなかった。これは難波名誉会長が「ラガーメンは紳士であるのでそのようなものは不要」ということによるものである。その後人数も増え会則もできた。

 相内さんが大変忙しくしておられるので、宮内さん(成蹊)と一緒にお手伝いをさせて頂いた。試合の連絡はすべて電話であったが、プレーをされない大先輩に連絡しないと大目玉を喰らったものである。諸先輩の多くはアフターゲームに出席されいろんな芸もでて盛り上がったものである。
試合は月1〜2回で国分寺の日鉄グランドなどよく使ったが、プレーをする人数は静岡等の会員も入れ25名程であった。地方遠征も函館、盛岡等を含めてよく行ったものである。
当時私のポジションのフッカーは人がいなく、忽那会長の交替要員としてよく出して頂いた。

1971年5月、最初の海外遠征は韓国で21名の参加があった。72年には第一回台湾・香港遠征で、暑い中頑張り、73年4月に初めてカナダのオールド・スタイラーズを迎え、国分寺新日鉄グランドで日加親善試合が持たれた。
これを機会に翌74年4月には第一回カナダ遠征を行い、ブリテイッシュ・コロンビア州政府の正式招待を受け、バレット首相、ビル・ダンバー、グラハム・バッジ諸氏等の交遊を深め、以後5〜6回以上に及ぶ交流が開かれることになった。
 今後ゴールデン・オールデイーズのみならず、カナダを初め各国との交流を続けたいものである。



2001/3/31
<カナダ遠征の思い出>  #31 渡辺雄二

  「不惑春秋」の原稿依頼を受け、先ず名簿を開いてみたのですが、惣那さんをはじめ明治生まれの先輩方は、殆ど他界され、大正生まれの方も、守田さん他三、四人しかグランドではお会い出来ません。背番号23の石瀬さん以降、三百余名が昭和生まれの人々でした。白、紺パンの皆さんには、昔の思い出話で恐縮ですが、第1回、2回のカナダ遠征の事を書かせて頂きます。

 第1回は1975年の4月25日から5月5日で、忽那会長を団長として応援の人を加え百人を越える大勢で遠征しました。
 ゲームは、バンクーバーで2試合、ビクトリアでの1試合で、最終戦のブリティッシュ・コロンビアチームのゲームがメインでした。グランドはスタンレーパーク内の最高のものでした。
 州知事がラグビースタイルで参加し、「ラグビーは英国で発生したスポーツであるが、オーバー40ラグビーは日本の不惑で生まれた。」と挨拶し、その後両国の国歌を斉唱しました。相手チームメンバーには、会長のバッチ氏をはじめ数人のキャップを持った人も居て、何となく(シニアクラスの)テストマッチの雰囲気で素晴しいの一言でした。
 また遠征中の観光では、ビクトリアの名園、ブッチャーズガーデンで見た蜂鳥に驚きました。世界有数の観光地バンフでは、現在では日本人は泊まれなくなったと聞くバンフ・スプリングホテルに2泊した後、レイクルイーズからコロンビア大氷河を廻り、特に氷上車で氷河の中央追登り、氷で持参のスコッチを文字通りのオンザロックで飲んだ味は今でも忘れられません。
 然し、バンフ3日目の朝、休日のはずが突然「最終戦必勝を期し練習」の命令が出たのです。前夜遅く(朝まで)飲んでいた数名の酒豪達は、二日酔いの頭をかかえ、「とても練習はできん。」とサボタージュを試みようとしていたのですが、小生の同室の故西谷さんに「キャプテン命令だ。ラガーなら従え。」と叱られ、かすむ頭を抱え、みぞれの中で練習をしたことが思い出されます。そして最終戦(ブリティッシュ・コロンビアチーム)を無事終わり、現在も文通をするエバーグリーンのメンバー達と別れました。

 第2回は、1989年のゴールデン・オールディ−ズ戦(於トロント)で、14日間の長旅でした。一番驚いたのは、試合場が見事な芝のグランドで、40面程並んでいて応援の御婦人方が水汲みの後、迷子になった程の広さでした。
 夜の2度のファンクションは、2千人程の世界各国の参加者で溢れる大規模なパーティーでした。これには特別参加の菅平町の役員も、日本での開催は無理だ、とあきらめた様でした。
 また観光地も雄大なもので、ナイアガラの滝見学(於遊覧船にて)後、広大な公園のピクニック広場でバーベキュー、カナダ大陸横断鉄道に依るカナディアンロッキー周遊等素晴らしい旅でした。

 以上第1、2回カナダ遠征の思い出のほんの一部を綴らせていただきました。
 尚、文中の故西谷さんは、東大OBで、明治生命八王子グランドを造られ、昭和53年12月に不惑と明生OB戦が永く続く様にと「西谷杯」を寄贈された方です。


2001/2/24
<続・会則と不惑倶楽部>   #58 大山秀元

 昭和63年の暮れは、昭和天皇のご病気が重篤となり、報道機関では連日トップでご容態を報道し、国民は一喜一憂の日を送り暗い日を過ごしていた。しかし不惑倶楽部の活動は活発でますますメンバーも増え、多種多様な構成となり、新旧交代の時期とも重なり、7年前に作られた規約では対応できない問題がでてきた。規約の改正をせまられ、理事会は、石瀬、元山、鈴木(康)、三橋、長尾各氏と私の6名に規約の改正の原案作りを依頼してきた。

 予算も無いため、神田にある元山さんの会社の一室をお借りして、月一回のペースで会議を持ち、平成元年5月には細則まで作り上げて、理事会に答申し同年9月から施行された。

 主な改正点はまず規約全体を見直し、年間事業を明確化し、常務理事制を排して、役員の選出基準を確立し委員会を設け、さらに細則を作って規約で扱えなかったことを補足したことなどである。細則を設けたことにより、理事(会長、副会長を除く)の定年制を設けること、会費の半額を倶楽部の将来を見越して積み立てること、などが大きな改正となり、理事会で承認された。この規約は平成12年NPO法人が認可されるために作られた定款ができるまで運用されてきたのである。

 この作業の途中、昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御され、すべての行事が中止または延期となる中で、計画されていた不惑の台湾遠征も実施か否かでずいぶんと意見がかわされたこともあった。特に平成元年2月24日の御大喪の日は休日となり全国民が喪に服していたが、委員会開催と重なっていたため、静まりかえった神田に時間を早めて集まり、規約の検討に熱中したことが思い出される。

 いずれにしても、

<不惑倶楽部は紳士の集団である。規約に定めのない事項又は運用に関して疑義が生じた場合は、ラグビー精神に則り信義、誠実を第一として解決する。>

という条項は永遠のものであると思う。


2001/2/4
<会則と不惑倶楽部>   #23 石瀬和正

 昭和23年不惑倶楽部が発足して以来30年経った53年に当時の副会長網倉志朗(立大)、相内要(明大)、長尾正(日大)の3氏の発案により会則を作る必要があると云う事から粗案が作られたのが最初である。細則が無いので日の目を見なかった。もともと不惑倶楽部(以後不惑と略す)では会則の無いのが、一つの誇りであるのか、他のクラブが会則を作っていても何の動きも無かった。

 発足当時会員は20〜30名、私が入会させて戴いた昭和39年(発足後16年)でも試合数は年間4〜5試合、表(オモテ)のメンバーはFW(敬称略):網倉(立)、清水(明)、矢野(明)、太刀川(日)、長尾(日)、玉野(専)、川田(東)、畠中(日)、山里(昭医)、苅田(専)、片桐(立)、BK:和田(明)、田川茂(慶)、畠山(教)、中川(明)、辻(立命)、上住(同)、塩崎(文理)、黒田(教)、池田(教)等々の外に楽惑より菅野、原、岩沢、西願、裏(ウラ)のメンバーとして草ケ谷(法)、根本(立)、石井(慶)、薄(早)、笠原(明)、加藤(立)、富野(農)、岡本(専)、高島(東)、楠目(京)、阿比留(専)、佐藤(日)等々の諸氏で35名前後であり、堅苦しい会則より気の合った連中の長老が云う事が会則であるとの考えが主流であった。(注:表のメンバーとは常時出場されていた方を指す)

 しかし昭和43年ポンソンビー(オーストラリア・チーム)が来日して以来、地方のラグビー熱が加熱され、不惑も年間20試合を超える様になり会員も25周年(昭和47年)には200名を数える程になり、先に3氏によって出来ていた粗案と既に会則を持っていた惑惑、迷惑ラグビークラブのものを参考にして新しく不惑倶楽部会則を作ることになった。当時の主務畠山元彰氏(東教大)から資金、役員、細則について細目検討するよう御下命があり、昭和56年7月末に第一回委員会を開催し、同年9月21日第一回の理事会の承認を得て同年10月1日から施行する事となった。

 20〜30名の少数、精鋭から数年間に10倍に増加した事はラグビー熱の増大と云う追風があったにしても、不惑の会員の入会資格を大幅に見直された事も大きく影響している。急激な増加により烏合の集団になる恐れが出てきた。それを未然に防ぐと同時に悪い風習を排除し良い伝統を続ける事が部の将来に極めて重要であることから、会則の必要が考えられたのである。悪い習慣とは新人会員は2名以上の推薦者の有る者及び全日本、地区代表等に選出された大学の体育会系出身者を最優先にした不文律の慣習を止め、ただ単にラグビー愛好者と改めたこと、同時にクラブ出身者の賛同、協力を得たことを忘れてはならない。

 50周年を経過した不惑倶楽部は、
  (1) 常に模範試合、指導試合を念頭に置き、気力、知力、体力の充実したチームであること、
  (2) 長幼序あり、礼を失すること無く、倶楽部の発展を常に念頭に努力する。

 大いにクラブライフを楽しもう。


2000/12/25
<アフターゲームの思い出>   #21 千原 開 千原さん

 不惑倶楽部に入り、初めてのゲームに参加したのは、対全三井戦、浜田山三井グランドで昭和41年1月下 旬であった。
 当時主務だった相内さんに「酒は一升呑めるか? これは不惑倶楽部に入る条件である」と言われ、「一升位は呑めます」と答えたことを今でも憶えている。

ゲーム終了直後に相内さんが全員集合をかけ、倶楽部の状況、メンバーの異動等と会計報告をした。これが規約のない時代の不惑倶楽部の総会であり、年に3、4回参加メンバーが多いときを見計らって行われた。
 会合はビールの乾杯で始まり、部歌の合唱で締めくくるのは今も変わりはないが、新人は何か一曲歌わされ、上住さんのリードで”不惑くずし”を合唱練習するのが常であった。 
 難波会長は”不惑ちゃっきり”を唄うのを楽しみとされ、我々のあいのてと、調子が合うまで何回でも繰り返し唄った。

 昭和45年ごろから対戦相手が増え、会員も増加し、主務はビール、酒が原価で呑める場所を確保するのに苦労した。西国分寺の旧国鉄学園、船橋の山一証券等がしばしば利用させていただいた懐かしいグランドである。
 主務が準備する酒量は、一人当たりビール大瓶一本、酒二合とウイスキー角瓶を4人に一本、これは相内さんの経験から割り出された不惑の適量であった。
 その後、時代が進むにつれ、ビール、ウイスキーが好まれ、日本酒が残ることが時々あったが、散会後、酒を残すのは不惑の恥と、必ず飲み干してしまう何人かがいた。
 その中でも一番の愛酒家の片桐さんが先日亡くなった。  合掌。


2000/12/01
<不惑春秋>         #60   杉本 要二
杉本さん

 1973年、私は母校の先輩である伊藤保郎さんの紹介により名誉ある不惑倶楽部に、入会させていただきました。

 当時から行われて居りました三地域対抗戦の前座には必ず不惑のゲームがありましたので、学生の頃からその存在は知って居りました。よくあの年になっても元気にやれるもんだなあと感心しながら観戦していた想い出があります。しかし、いざ実際に自分が入会して、憧れていた名選手に直接声をかけられ又一緒にプレーする事になって、これはとんでもない倶楽部にはいってしまったものだと、緊張もし、又反面、うれしくもありました。

 当時のゲームは月に二回くらい、参加するメンバーも25−30人くらいでした。試合のメンバーもおのずと先輩から各々のポジションが埋まってゆき、あいた所に新入部員がはめこまれるといった具合で、私のデビューはフルバックでした。

 入会したときの会長は忽那さん(慶大)、主将は清水さん(明大)、主務は相内さん(明大)でした。特に清水主将は、私が学生の時、中大の監督をされておられ、色黒でオッカナイ雰囲気を持った方だなあと陰ながら思っておりましたが、入会して接してみると、意外にも心やさしい方で、メンバーについても「杉よ、今日はフルバックをやってくれ」とか、「今日はウイングだ」等わざわざ言っていただき、恐縮してしまった想いがあります。

 以来27年、未だに心は入会当時と変わらずボールを追っかけて居ります。この年になって漸く判ってきたのは、継続する事が如何に大切な事かと言うことです。これによって自分の身体を鍛えることは勿論の事、たくさんの友人を得、ラグビー以外にも広く全体を見回せる視野をもつ事が出来た様に思います。

 ラグビーを通して中高年者の生涯スポーツの実践を計り、啓蒙する事によりNPO不惑倶楽部のより広範囲にわたる活動を推進したいと思って居ります。

●杉本 要二  不惑倶楽部理事長



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